旅行・旅ブログのスタイル・ポリシーについて

狩勝峠から望む十勝方面の景色

個人旅行ブログ「aoitrip.jp」の「旅行・旅ブログのスタイル・ポリシー」について、掲載しているページです。
旅行のポリシーとはやや大げさな表現と理解していますが、他に適した言葉が見当たりませんでした。

札幌のスープカレー屋さんの壁に掲示されている、その店のこだわりみたいなものです。

旅行記事内でその都度書くと、話が幾度となく脱線するので、ひとつの記事にまとめておきます。

あくまでもaoitrip.jpのスタイル・ポリシーであり、他の方のスタイル・ポリシーを否定するものではありません。

なお、本ブログは「更新型(update)」を前提としているため、aoitrip.jpの気が変わればスタイル・ポリシーも方向性を微調整する可能性があります。

YouTube旅動画の撮影はやらない

一度、YouTubeでVlogにチャレンジしようと、真冬の函館でジンバルに一眼カメラを載せて撮影の動画撮影の練習に励んだことがあります。
結論として、旅動画の撮影はまったく面白くないどころか苦痛で、ジンバルも即座に売却しました。

主語を大きくして「写真が動画よりも優れている」というつもりはありませんが、ウェブサイト・ブログという媒体があるのであれば、実は写真の方が「素材」としてアレンジが柔軟です。
例えば、写真1枚単体で伝えても良いし、数枚の組み写真にしても良い。
写真だけで伝わらないのであれば、言葉で補完することもできます。
言葉では表現できないのが写真の魅力でもありますし、言葉で説明をしないのも選択肢のひとつです。

旅行中に写真撮影をするのは、楽しい。
少なくともわたしの場合は、です。
旅行に重たいカメラを持っていきたくないという人も中にはいるでしょうが、わたしの場合は旅行中にいわゆるベタな「観光写真」を撮るのも、「スナップショット」を撮るのも、「アート写真」を撮るのも好きなのです。
ならば、旅行中に撮るのは写真のみで良いではないかと。

動画は、1秒間に24枚・30枚・60枚などの複数枚の写真の集合体です。
素材を引き延ばそうとすると不自然なスローモーションになるので、あとで素材が足りなくなっては困ります。
つまり、旅行中でありながら動画が完成した時を想定して撮影しなければならないのです。

動画撮影は一般的に「1秒間のコマ数(FPS)の2倍のシャッター速度」に設定を行い撮影をします。
日中の明るい外の空間から暗がりの大聖堂に入った場合などは、絞りやISOの調整、NDフィルターの付け替えが都度必要となります。
可変NDフィルターなどの便利なアイテムはありますが、そこまでして旅行動画の撮影をするモチベーションは上がりません。

また、カメラを動画撮影用の設定にしている時に、突然に写真のシャッターチャンスが訪れたらどうでしょうか。
最近の一眼カメラはダイヤルで予め設定したカスタム設定の呼び出しができるものの、その切り替えの間に絶好のシャッターチャンスを逃す可能性があります。
写真とは、得てして、そういうものです。
心ときめいた、その瞬間に切りたい。

複数人で役割分担をしているならいざ知らず、1人旅で写真と動画の二刀流を行うのはなかなか辛いものがあります。

補足しておくと、自治体や企業のプロモーションを目的とした仕事の撮影、映像作品をつくるための撮影は別です。
仕事中に旅らしい旅ができるかはさておき、仕事は仕事、創作活動は創作活動なので割り切れば良い。

つまり、「自分の旅そのものを動画コンテンツで無理に仕事にしようとすること」、これが旅をつまらなくする要因なのです。

また、YouTubeは企画・撮影・編集に対して、有限な時間・リソースの大部分を割くことになります。
それらのタスクをすべて外注するのではなく、自らのみで行う場合、大切な時間の多くをYouTubeに投入することになります。

この場合の一番の問題点は、読書やプログラミングでもなんでも良いですが、勉強やインプットに回す時間が枯渇することです。

Twitterをやらない・見ない

以前は、旅先で撮影した写真や動画をTwitterにアップしていたものの、現在はTwitterの投稿をやめ、aoitripに関連する旅行アカウント自体も削除しました。

旅の様子をできるだけリアルタイムで発信しようとすると、意外と時間を取られます。
さらには、深い考察を書こうにも書けた試しがありません。
旅行についての体系的な情報を発信するのであれば、一度情報を整理したうえで、後日に旅行ブログまたは情報サイトにアップすれば良い話です。

他方、タイムラインを見る側の視点に立つと、Twitterのタイムラインに流れるフロー情報を取得しても、交通機関やストの情報など稀に役立つケースはあるものの、そのほとんどが取るに足らない情報です。

その地に長年住んでいる人や、歴史や文化を深堀りできる知識がベースにある人であれば別かもしれませんが、一介の旅行者が初めて訪れた地でリアルタイムの旅行情報を発信したところで、『地球の歩き方』以上の情報を提供できることはほとんどありません。

検索エンジンのようにユーザーが能動的に情報を探す一方で、SNSはタイムラインに受動的に流れてきます。
その大量の山の中に、自分の人生の時間を削ってでも手にしたい情報はあるのでしょうか。
わたしには見当たりませんでした。

風のように旅をする

「旅行ブログのPV数を延ばしたい」というのは、ゲーム的な要素も含めてあります。
ただし、旅行ブロガーとして有名になりたいとはまったく思わないですね。

インフルエンサーになりたいとは思いません。
届く人に、届いていれば良いです。

顔出しはしません。
顔出しをすることは「相手は自分のことを知っているかもしれないのに、自分は相手のことを知らない」という状態を受け入れることを意味します。
「相手は自分のことを知っているかもしれない」には、「知っているかもしれないし、知らないかもしれない」という、不安定で不確実な、遊びがあります。
さらには、「話かけられるかもしれないし、話かけられないかもしれない」という、不気味な曖昧さも残します。

自分がコントロールできない外部に実行環境があるプログラムが、無数に現れては消えたり、実行されたりされなかったりします。
それらの出現場所は、観光地だけではなく、空港、ホテル、機内、レストランなどの場所を選びません。

仮に、沢木耕太郎の旅をトレースしたくて香港ヴィクトリアハーバーで片道数十円の船に乗り、心地良いとも言いがたい生ぬるい風を浴びているとしましょう。

その時に声をかけられたとして、あるいは、知らない人がこちらを見ているような錯覚に陥って、それは本当に「自由に旅をしている」状態といえるのでしょうか。

「顔出し」は「自由に旅をする」の対義語。
そして、不可逆です。

その町の人たちは、自分のことを誰も知らない。

風のように旅をする。

旅の楽しみ方は人それぞれ

SNSのタイムラインばかりを眺めていると、旅行には「極上の旅」があって、それがまるで最上級であり、それ以外の体験は下かのように錯覚してしまいそうになります。

そんなことはありません。

例えば、高級ホテルではできない体験が、ホステルにはあります。
宿泊先を探すときに、星の数が多いホテルを選ぶこともあれば、国によってはホステルを選ぶこともあります。
ホステルの共用スペースでは、異国の人たちと言語の壁を超えたコミュニケーションが生まれることがあります。
そこから仲良くなり、大切な友人もできました。

一方、高級ホテルで同じことをしたらどうでしょう。
完全たる不審者です。

ホテルの朝食ビュッフェは、そもそも本当に必要でしょうか。
リゾート地で他に選択肢がない場合、小さなお子さん連れのファミリー、ビジネス目的の場合は除きます。

台北のとある高級ホテルで、美味しいとも美味しくないともいえない朝食ビュッフェを食べている時に、ある景色が思い浮かびました。

通りを無数のバイクが行きかい、左右からは中国語の騒々しい声が飛び交う。
喧噪とまとわりつくような湿気の中で、頬張る数百円の早餐。

高級ホテルのスイートルームに宿泊したら、幸せな気分になるのでしょうか。
もちろん、贅沢な気分にはなるし、狭苦しい客室よりは広い客室の方が良いです。

ただし、心を満たすような充足感を得られるかといえば、宿泊数を重ねていくと幸福度は逓減していきます。
それは、年収と幸福度の相関の話にも似ています。

2015年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者アンガス・ディートン教授(Angus Deaton)の研究によると、「年収USD75,000」までは幸福度が増幅するものの、それ以上は年収と幸福度の相関関係は見られず影響が小さくなるとしています。

旅に限った話ではありませんが、他人と比較することの一切をやめた方が、きっと楽しい旅ができると考えています。