わたしの大学受験時の記憶が確かならば、台湾の歴史についてしっかり学ぶのはほぼほぼ近代史、清朝末期あたりからだった、はず。では、台湾の歴史はどこまで遡って紐解けるのか?
台湾は大航海時代末期、ヨーロッパの人々からポルトガル語で「Formosa(フォルモサ=美しい島)」と呼ばれていた…。台湾が史上に登場する地、台南・安平の安平古堡(旧ゼーランディア城、Fort Zeelandia)を訪れました。
安平古堡 Fort Zeelandia
台湾南部の都市、台南・安平(Anping)にある安平古堡(あんぴんこほう、Fort Zeelandia)。旧名称はオラニエ城(Fort Orange、奧倫治城)、ゼーランディア城(Fort Zeelandia、熱蘭遮城)と文字通り横文字です。
ポルトガル、スペインがアジアに進出した大航海時代。スペインから独立したオランダが進出した場所が台湾南部の安平(Anping)、そこにオランダ人たちが築いた城がゼーランディア城であります。城の材料となった赤レンガはバタヴィア(現ジャカルタ)から運んできたもの。
オランダにより1624年から建設が始まり1634年に完成を迎えたオラニエ城・ゼーランディア城ですが、オランダが台南を統治した期間はわずか38年。そのオランダを打ち破ったのが明の鄭成功で、鄭氏台湾の根拠地として安平鎮城(通称王城)と名を改められます。
鄭成功亡き後は清国による台湾統治が始まり、オランダ人の髪の色から「紅毛城」と呼ばれていましたが徐々に城は荒廃。その後イギリスの砲撃を受けたりと原型はほとんどなく、オランダ時代の面影を確認できるのは外城南側の赤レンガのみです。
安平古堡の石碑。
日本統治時代(戦前)には1628年にオランダ東インド会社の関税撤回を要求しタイオワン事件を起こした浜田弥兵衛の功績を讃え「贈従五位濱田彌兵衞武勇之趾」と刻まれていたが、戦後に現在の「安平古堡」に書き換えられた。
熱蘭遮城博物館 Fort Zeelandia Museum
清国が第二次アヘン戦争(アロー戦争)でイギリス・フランスに敗北したことにより台湾が貿易港として開放された際、外国商人の税務司として使われていた建物。現在は改装され、熱蘭遮城博物館として資料が公開されています。
ほとんどの資料が中国語・英語はもちろん日本語でも解説が併記されており、当時のヨーロッパ人が呼称していたフォルモサ(Formosa、福爾摩沙)の地図、ゼーランディア城の模型を交えながらじっくりと歴史を学べます。
オランダが入植していた当時のフォルモサ島のマップです。
当時のゼーランディア城は外海(フォルモサ海峡)に面しており、オランダ船や中国船が行き交っていました。
また現在とは違い台南には大きな湾「台江内海」が存在し、台南中心部にほど近い赤崁楼(旧プロヴィンティア城、普羅民遮城)も台江に面していたことが分かります。なぜオランダ人は旧プロヴィンティア城を旧ゼーランディア城から中途半端に離れた位置に築いたのか?謎だったのですが、この地図により合点がいきます。
鄭成功がゼーランディア城を陥落させた後、原住民にこの場所(安平)の名称を尋ねたところ「大員(Tayouan)」と答えたことが台湾の語源であるとも言われています。
オランダ人が台湾を去った後の1724年に描かれたフォルモサ島の海図。フォルモサ海峡に面する安平の地が地政学としてもかなり重要な位置であることが伝わってきます。
また、安平の西にある澎湖諸島にはPiscadoresの文字。澎湖諸島には漁師が多かったからPiscadoresなのだとか。
オランダ時代のゼーランディア城模型。奥の正方形の部分が内城、手前が外城です。
東側(写真奥)には町(現在の安平老街)が存在し、オランダ人や中国人、日本人も商売していたのだとか。
外城南側の城壁 Remnants of Fort Zeelandia
ゼーランディア城の外城南側部分。保存状態がよくオランダ時代の建築様式を間近で見ることができます。絡みつくのはガジュマルの根。
城壁は赤レンガ。積み方はダッチボンドスタイルという形式で、レンガの面の向きを格段交互にすることで隙間が出ない方法を取っている。
赤レンガを接合するモルタルは三合土と呼ばれ、もち米の汁や蛎殻、砂糖のシロップ、砂を混ぜたもの。
外壁と梁の接合にオランダ人が伝えた建築技術の金属ウォールアンカー(現地では通称鉄バサミ)を使い、外壁と梁の接合強度を高めていたため耐震性にも優れているそう。
オランダが持ち込んだ建築技法は原住民にも影響を与え、茅葺や竹製だった民家を火災(防災)対策のためにをレンガ造りの家に建て替えさせたそうです。
ゼーランディア城包囲戦でオランダを陥落させた鄭成功が外郭の南側から出入りするように設けた門、Gate of Xie-Die。
鄭成功 Koxinga
敷地内に建つ鄭成功の銅像。鄭成功は明国の父親と日本人の母親との間に生まれ、出生地は長崎県の平戸市であります。
鄭成功が亡くなった後に息子の鄭経が父親を祀った鄭成功祖廟が台南孔子廟近辺にありますので、あわせて訪れてみるのもいかがでしょう。
史跡記念館 Former Dutch Fort, Historic Memorial Hall
旧内城の上部にある史跡記念館。
史跡記念館内部にはお土産ショップと展示があります。熱蘭遮城博物館とは異なり日本語の解説がありませんが、熱蘭遮城博物館にはなかった原住民についての記述がありました。
台湾原住民の平埔族(Pinpu Tribe)。農業や狩猟で生活をし、竹と木で作った家に生活していたという。
オランダがインドネシアのバンダ諸島から連れてきた奴隷、Oo-kui-a。オランダ東インド会社はOo-kui-aにFortressつまり旧ゼーランディア城や旧プロヴィンティア城の建築、そして井戸の掘削をさせていました。
1662年、ゼーランディア城包囲戦により鄭成功がオランダを駆逐し条約を結ぶと、オランダ東インド会社の所有であった奴隷も台湾の地を即座に去ることになり、歴史から姿を消す。
赤嵌楼の北約500mにある烏鬼井(Wuguijing)は彼らが掘った井戸で、今も水が湧き出るそう。
展望台 Survelliance Post
旧内城の頂上に建設された展望台。60段の階段を上ると四方の風景を見渡せます。
日本統治時代の1930年、台湾文化300年を記念して鑑賞用に設置した大砲。
外城北側の城壁 Outer Fort of Fort Zeelandia
安平古堡の敷地外。北側の舗装路を挟んだ向かいには、外城北側の城壁がわずかに残っています。
19世紀後半、台湾への攻撃を準備する日本に対抗するため、清国は外城北側の城壁のレンガを取り壊し、二鯤鯓砲臺(億載金城)の砲台の材料としました。そのため外城南側の城壁と比較すると保存状態が悪く、もはや見学者の姿さえありません。
なぜこの場所のみが安平古堡の敷地から外されてしまったのか経緯は分かりませんが、隣は私有地(民家)のためさらっと見る程度にとどめておきます。
安平古堡のチケット料金・入場料
Adult | 50NT$ |
Discount(学生) | 25NT$ |
6才未満 | Free |
営業時間:8:30〜17:30
安平古堡の場所・行き方・アクセス
安平は台南駅から直線距離で4km西にあるため、台南駅から直接安平へ行く場合はバスまたはタクシーでのアクセスが現実的です。台南駅周辺からバスでアクセスする場合は
- 路線バス2番線
- Taiwan Trip88番線(安平線)
- Taiwan Trip99番線(台江線)
に乗車し「安平古堡(安北路)」停留所までアクセスできます。バスの料金は片道18NT$。
赤嵌楼や台南孔子廟など台南駅周辺のスポットを見た後でも、周辺に上記3路線のバス停留所はありますので組み合わせて観光することも可能です。台湾現地のSIMを購入するなど、スマホでインターネットができる環境であればGoogle Mapsでバス経路を確認しておくと間違いないと思います。
また、土日祝限定の安平環線假日公車バス(Anping Holiday Bus)が10:00〜19:00、20分に1本で運行しており、億載金城までアクセス可能です。平日に安平古堡見学後、億載金城まで行く場合については安平老街の東付近でTaiwan Trip88番線を拾うかタクシー移動になるかと思います。
おわりに
安平古堡はゼーランディア城が建築された当時の面影は少ないものの、台湾のルーツ・歴史を学ぶのに最適な場所です。
まずは熱蘭遮城博物館へ足を運んで概略を把握し、その後に城壁や鄭成功像を見学されるとより一層楽しめると思います。
かつて眼前に広がっていたであろうフォルモサ海峡、そしてそこを行き交ったであろう数多の商船を思い浮かべながら展望台から景色を眺めてみるのも一興です。