高雄市の沿岸部。
寿山から旗津島にある旗后山にかけての一帯は、かつて戦火を交えた舞台となりました。
清国が旗后山に築いた砲台「旗後砲台(Cihou Fort)」とその周辺を訪れました。
旗津島 Cijin Island
台湾本島からわずか500m西にある旗津島(きしんとう)。
現在は南北約8.5kmの細長い島です。
台湾本島(高雄)からはフェリーで約5分。
海産物を販売する露店が並ぶ旗津老街を抜けると、旗津海水浴場があります。
海水浴場から西の小高い山に目を向けると見える、四角い舞台のような建造物。
旗後砲台(Cihou Fort、きごほうだい)です。
旗後砲台 Cihou Fort
旗後砲台 Cihou Fort
旗後山の上に建つ旗後砲台(Cihou Fort、きごほうだい)。
現地の解説によれば、清朝末期に打狗港の安全を守るため3箇所に砦が設けられました。
最も高い位置にあったのが打狗山の「大坪頂砲台」、次に旗後山の「旗後砲台」、一番低い位置にあったのが哨船頭の「雄鎮北門」です。
旗後砲台の記録が最初に確認できる文献は1720年の「鳳山縣志(History of Fongshan County)」で、3つの砲台、1つの煙突、1つの監視塔があったとされています。
旗後砲台は英国とのアヘン戦争の際にも防衛のために使われましたが、現在のように大規模に増強されたのは19世紀後半のことです。
1874年に発生した牡丹社事件をきっかけに日本は台湾に出兵。
清国は台湾を防衛するために欽差大臣の沈葆楨を台湾に送り、イギリス人のJ.W.ハワードを雇って要塞の建設を始めます。
現在の旗後砲台は1876年に完成しました(沈葆楨は台湾の安平にも砲台「二鯤鯓炮台, 億載金城」を築いています)。
1895年10月15日午前6時55分頃、巡洋艦吉野が巡洋艦秋津洲など艦船を引き連れ旗後砲台および旗後砲台の入り口(威震天南)を攻撃します。
攻撃前の4時に司令官の劉成良(Liu, Cheng-Liang)は台南の安平に脱出。
司令官不在で指揮系統が乱れたため、砲台からは弾が5つ発射されたのみで日本軍は抵抗なく旗後砲台を占拠しました。
旗後砲台は南北3つのエリアに分かれています。
北側が兵舎、中央部分が司令所、南側が砲弾貯蔵庫です。
南側の砲弾貯蔵庫。
四方に向けてイギリス製のアームストロング砲が計4門設置されていました。
中央の司令所から東側高雄85タワー方面を望む。
北側の兵舎。扉は固く閉ざされています。
威震天南 Wei Jhen Tian Nan
兵舎の東にある中国式の城砦入り口「威震天南(Wei Jhen Tian Nan)」。
門の上部の文字は1895年の日本軍による攻撃により破壊されたため、1991年に高雄市政府が修復したもの。
空を意味する「天(Tian)」、南を意味する「南(Nan)」の二文字が復元されています。
門の両側には喜の漢字を2つ並べた喜喜(double happiness)。
旗後砲台の夕日
見晴らしのいい旗後砲台は夕日鑑賞のスポットにもなっています。
この日も、歴史の糸を紡ぐ夕日が静かに沈んでいきました。
旗津星空隧道 Cijin Star Tunnel
日本統治時代に軍事用トンネルとして掘削された旗津星空隧道(Cijin Star Tunnel)。
旗津島の断崖絶壁に打ち寄せる波。
台湾(清朝時代)最初の宣教師にJames Laidlaw Maxwellの記念碑。
高雄灯台(高雄燈塔)
旗後砲台の北側に建つ高雄灯台(高雄燈塔)。
こちらも見晴らしがよいようですが、17:00に扉が閉まるようで入れませんでした。灯台もご覧になる場合は旗後砲台の前に先を訪れておくとよいでしょう。
月:定休
旗後砲台の場所・行き方・アクセス
旗津島のフェリーターミナル旗津輪渡站(Cijin Ferry Station)までは鼓山輪渡站(Gushan Ferry Pier Station)からフェリーで約5分、料金はNTD40元(ICカードの場合半額のNTD20元)でアクセスできます。
旗津島のフェリーターミナル(旗津輪渡站 Cijin Ferry Station)から旗後砲台までのアクセスは、住宅街と舗装された坂道を上がって徒歩約11分です。
おわりに
打狗の歴史を砲台と水平線・その先に沈む夕日から垣間見れる明媚な場所でありました。
億載金城(二鯤鯓炮台, 台南)清が台湾防衛のために築いた砲台