明治時代初期の北海道開拓期において、京都の東本願寺(真宗大谷派)が明治新政府に「出願」して請け負った「本願寺道路開削」。
函館から札幌本府へ向かう現如上人とその一行を描いた浮世絵集『北海道図絵(1871年発刊、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)』の復刻・編集を行う際に「本願寺道路開削ゆかりの地」を調べてマップに落とし込みました。
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東本願寺の北海道開拓
新政府軍と旧幕府軍による箱館戦争(1868-1869年、五稜郭)が終結して間もなく、蝦夷地は「北海道」と改められ開拓使が置かれます。
北方の防備増強・それに伴う道路開削は急務であり、さりとて新政府は財政難に陥っていました。
そこで白羽の矢が立ったのは、京都にある真宗大谷派の東本願寺。
旧幕府徳川家の恩顧があるために新政府から「東本願寺焼き討ち」の案が上がった末、東本願寺は「叛意がない旨の誓書」を提出。
焼き討ちは免れたものの、その誓書の一文には「如何なる御用も拝承つかまつりたく」とありました。
財政難の新政府と、何でもすると約束した東本願寺。
さらに追い討ちをかけるように、明治維新の動乱において「廃仏毀釈」、仏教そのものが否定される時代背景があります。
その結果、東本願寺による本願寺道路開削「出願」という形で新政府から許可がおり、現如上人(大谷光瑩)の一行は「新道切開」「農民移植」「教化普及」を掲げて1870年2月10日に京都を出発。
www.city.sapporo.jp/minami/yawa/mokuji/2honganjidoro/higan.html
一行は7月7日に函館港に着帆。
士族、アイヌの人々を連れ、札幌を目指します。
その模様を描いた浮世絵集『北海道図絵(東本願寺北海道開拓錦絵)』。
本願寺街道ゆかりのマップ
本願寺道路として現存する4本の道路の内、最も苦戦を強いられたのが「胆振国尾去別(おさるべつ、現伊達市)~平岸(現豊平区平岸)」を結ぶ全長103kmの道程。
現国道230号線の前身となる道です。
オサルベツ:尾去別、東本願寺街道起点の碑
ソウベツ:壮瞥
ニッポキナイ 財田
ヌツキベツ 貫気別
シリベツ 尻別
アンユク 喜茂別町栄
ムイナイ 上薄別
ケレベツ 薄別
定山渓温泉
ニセイオマップ:旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)
平岸村:本願寺道路終点の碑
旧伊達藩士、土地勘のあるアイヌの人々を連れ、1870年7月に工事開始。
約1年3ヶ月後の1871年10月、幅員約2.7m・全長103kmの道路が開通します。
札幌方面から定山渓温泉を抜けて洞爺湖、倶知安・ニセコ方面に向かう場合、国道230号線の中山峠を経由します。
美しい景色を一望できる人気のドライブコースも、その前身は「現如上人・僧侶・アイヌの人々が斧で開削したこと」に想いを巡らせながら走ると、少し楽しみ方が変わるかもしれません。
名物あげいもが美味しい「道の駅 望洋中山」には、北海道開拓100年を記念して1969年に建立された「現如上人像」があります。
再びこの周辺を訪れる際には、マップに落とし込んだゆかりの地を訪れたり、『北海道図絵(東本願寺北海道開拓錦絵)』で描かれているシーンと似たような角度で写真撮影したいと思います。
東本願寺 札幌別院(〒064-0807 北海道札幌市中央区南7条西8丁目290)