珊瑚礁が隆起して生まれた与論島。
島の最も高い場所にある与論城跡(琴平神社)を訪れました。
与論城跡 Yoron Castle Ruins
与論島の南側の坂の上にある琴平神社。
別名「与論城跡(Yoron Castle Ruins)」とも呼ばれています。
奄美群島南部と沖縄本島北部を支配下にしていた北山王国帕尼芝(はねじ)王の三男王舅(おーしゃん)。
王舅がこの地に与論城を築く(築城期間は1405年〜1416年)さなか、1416年、尚巴志王によって北山王国が滅亡します。
城は未完成のまま築城中止になりました。
その後1429年、尚巴志王により三山統一。
琉球國が誕生します。
サンゴの積み石による石塁が残ります。
琴平神社 Kotohira Shrine
琴平神社は昭和20年(1945年)米軍による爆撃により一度焼失しています。
完成する城を見ることなく亡くなった王舅のお墓。
石碑
地主神社(とこぬし)の赤い鳥居をくぐり抜けると、石碑が並ぶエリアへ。
慰霊碑の碑文。
昭和18年(1943年)8月4日、満洲与論開拓団が満洲錦洲省盤山県(現在の中華人民共和国遼寧省盤錦市)に入植。
昭和20年(1945年)8月の敗戦後にその多くが犠牲となった。
後世に伝える慰霊碑です。
戦死者の慰霊碑である忠魂碑。
明治43年(1910年)建設。
後に第33代内閣総理大臣となる当時の陸軍大臣 林銑十郎の書。
上野應介翁頌徳碑。
19世紀末、天然痘・台風・火災の被害により大規模な飢饉が発生。
私財を投じて長崎県口之津への移住を推進した当時の戸長上野應介氏の功績を後世に伝える碑文です。
与論城跡 龍頭からの眺望
奄美群島、沖縄諸島、先島諸島の中にはユーラシア大陸から引き離されて生まれた「山がち」な古い島と、珊瑚礁が隆起してできた新しい島があり、与論島は後者の珊瑚礁が隆起してできた島です。
与論島は起伏が少ないため、与論城跡からは与論空港や与論町役場周辺を一望できます(天候がよければ沖縄本島北部、伊平屋伊是名諸島も)。
与論島の中央にある「舵引き丘」では、琉球石灰岩の中にサンゴや貝の化石を見ることができ、そちらの訪問もおすすめします。
北西方向には、与論空港の滑走路。
霞が強くわかりづらいですが、水平線の先には与論島の真西約40kmの場所にある沖縄の伊平屋島が見えます。
与論の中心地、与論町役場方面。
琴平神社の裏手にあるサザンクロスセンターにも行ってみましょう。
サザンクロスセンター Southern Cross Center
琴平神社の敷地内にあるサザンクロスセンター(Southern Cross Center)。
5Fは360℃パノラマの展望台、1F〜4Fは与論島の歴史や文化についての展示があります。
入場料/大人:400円、子供:200円
営業時間/9:00〜18:00
最上階の展望台へ。
琴平神社の龍頭からでは見ることのできない東側(百合が浜方面)、南側の眺望も楽しめます。
壁には「琉球古代城主・按司系統図」という何とも興味深い資料が展示されていました。
北山王国帕尼芝(はねじ)王、そして与論城を築造するさなか亡くなった三男王舅(おーしゃん)の名前は一番右側に確認できます。
源為朝(みなもとのためとも)の名も。
平安時代末期、最期は伊豆大島へ島流しに遭い、自害したとされる。
しかし他方では、源為朝は奄美を経由して沖縄本島に行き着き「源為朝公の子供が初代琉球王の舜天」という伝説がある。
いや、伝説ではない。
琉球王国ではそれが正史(『中山世鑑』)になっているのであります。
また、源為朝のゆかりの地が沖縄本島に多数残っている。
その足跡を追いたくなる、何とも興味をかきたてられる人物です。
1945年に敗戦後、奄美大島が日本に復帰するまでの8年間に関する展示。
奄美群島が祖国復帰するまで使われていたB円。
与論城跡は、与論島を一望する眺望だけでなく、与論島の歩んできた歴史も学べます。
与論に来たら訪れるべき場所のひとつです。
与論城跡の場所・行き方・アクセス
レンタカーの場合、サザンクロスセンター横に駐車場(無料)があります。
与論町役場から約7分(2.9km)、与論空港から約11分(4.5km)です。
与論島を走るバスでアクセスする場合「石仁前」で下車、徒歩約6分。