14世紀〜15世紀頃、久米島の北西部に存在した具志川城跡(Gushikawa Castle Ruins)を訪れました。
具志川城跡 Gushikawa Castle Ruins
久米島の北西部に位置する具志川城跡(Gushikawa Castle Ruins)。
具志川城は、15世紀頃に真達勃按司(まだふつあじ)により築かれたグスクです。
標高25mの石灰岩の上には4つの曲輪があり、周囲は珊瑚石灰岩・琉球石灰岩の城壁で囲われています。
具志川城は真達勃按司の子である真金声按司(まかねぐい)の時代、伊敷索按司(いしきなは)の次男である真仁古樽按司(まにくだる)に攻め入られ、落城。
島外に逃げた真金声按司は、沖縄本島南部の喜屋武岬近くに逃げ込み、同じ名の具志川城(糸満市)を築城しました。
具志川城を本拠とした真仁古樽按司も、最終的には兄の宇江城、父の伊敷索城とともに三山統一した琉球国に制圧され、具志川城は終焉を迎えます。
城壁の東南側は保存状態は良く、遠方から見た時によく分かります。
城門跡への階段を上がる右手にある、トートー石。
稲の豊作を感謝する6月ウマチー(旧暦6月25日)の「グシクヌブイ」の際に、久米島の最高神女である君南風(チンベー)が座する石のことである
『沖縄大百科事典 上 ア~ク』(沖縄タイムス社、1983年) p864 「君南風 きみはえ(チンペー)」の項によれば、「君南風」は「沖縄の高級神女。・・・久米島全島のノロや神女を支配した」とある。
階段を上り、城門跡を抜けて城内へ。
城門側を振り返る。
城門を背にして左側にあるのは、当時の裏門跡。
裏門跡の右手にある崖。
薮が途切れているため、干潮の海岸線と東シナ海を望みます。
具志川城が落城した際、按司夫妻はここから布を降ろして伝い、命からがら逃げたと伝わっています。
その崖地を海側から望む。
高さ10mはありそうです。
按司は一目散に逃げ、沖縄本島南部へ向かったのでしょうか。
その崖地の北側にあるのは四の郭。
この場所は馬場跡と推察されており、草が生えている窪みは溜池だったと想定されています。
四の郭の建物の基礎と推定される、6つの石。
ニの郭と奥に、舎殿跡。
舎殿跡。
舎殿跡の先に、一の郭。
奥には、景勝地のミーフガー。
具志川城は、発掘調査により、元・明時代の磁器や古銭などが出土しています。
当時の具志川城は中国や日本の船が行き交い貿易が盛んでした。
写真は大和泊海岸。
今は何もない静かな海岸に、当時は日本の船や唐船が停泊して賑わいを見せていたのでしょう。
久米島から約47km東東南にある慶良間諸島の座間味島には、唐船の座礁を防ぐためにつくった「船だまり跡(唐船グムイ)」があります。
詳細は「高月山展望台(座間味島)」をどうぞ。
那覇空港から来た機体が旋回、久米島空港に降り立っていきます。
さいごに、具志川城について謳った「おもろ」があります。
一 具志川の 真玉内は げらへて 良く げらへて 勝り ゆわる 精高子
又 金福の 真玉内は げらへて
又 唐の船 ぜに 金 持ちよせる ぐすく 良く げらへて
又 大和の船 ぜに 金 持ちよせる ぐすく
具志川城跡(久米島)の場所・行き方・アクセス
レンタカーの場合、久米島空港から約9分(4.7km)、イーフビーチから約22分(12.1km)が目安です。
久米島町営バスの場合、最寄りのバス停は「仲村渠(仲村渠公民館の前)」。
バス停から徒歩約15分(1.0km)