シンガポールリバー河口の西にある見晴らしのよい丘、フォートカニングパーク(Fort Canning Park)を訪れました。
フォートカニングパーク Fort Canning Park
今から約200年前、人口わずか200人の島だったシンガポール。
シンガポールリバーの河口に上陸したのがイギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズです。
ラッフルズ上陸地点の西にある小高い丘。現在のフォートカニングパーク(Fort Canning Park)です。
イギリスがシンガポールに上陸する以前からこの丘は重要な拠点でありました。
14世紀のKingdom of Singapura時代には丘の上に王宮があり、マレー語で「Bukit Larangan=英訳 The Forbidden Hill」と呼ばれ「禁断の丘」を意味していました。
当時の住民は許可なしで丘の上に上ることが許せれていなかったといいます。
イギリスが上陸した当時は丘の上からシンガポール海峡・港を見渡すことができ、Government Hillと名付けました。
景色を気に入ったラッフルズは丘の上に住居を構えます。
(当時の丘から港を見おろす景色を描いた絵はナショナルギャラリーシンガポールに多数展示されています。
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イギリス時代の1861年には砦が作られ、フォートカニング(Fort Canning)と改名されました。
整備された現在のフォートカニングパークはマリーナベイ周辺に住まう住民の憩いの場であり、観光客がその歴史を探りに来る観光スポットでもあります。
とはいえ、華やかなマリーナベイ周辺に誘われるためか人影は少なく、見かけても欧米人の観光客を見かけるぐらい。
静かな雰囲気が漂います。
The 19th Century Walk。
イギリスがシンガポールを植民地とした1819年以降に建てられた砦や要塞が数多く残ります。
イギリス植民地時代の1859年から1861年に建てられた西側のゲートです。
イギリス統治時代、British Far East Command(英国極東司令部)の事務所として使われていた建物を修復し、2010年にオープンしたホテルフォートカニング。
フォートカニングパークの木々の間からはオーチャード方面もよく見えました。
マンダリンオーチャードホテルのクラブラウンジまでよく見えます。
時は第二次世界大戦。1942年12月8日、マレー作戦においてマレー半島北部から進入し南下してきた日本軍は、1942年2月8日ジョホール水道を越えシンガポールに侵入。
1942年2月15日の朝、フォートカニングの司令部にて降伏を決めた場所、それがThe Battle Boxです。
The Battle Boxは当時の様子を再現した博物館になっており、見学は英語ガイド付きの合同ツアーで予約制。
フォートカニングパーク敷地内のBattle Box Visitor Centreで予約できます。
月(祝日を含む):13:30、14:45、16:00
火〜日:9:45、11:00、13:30、14:45、16:00
チケット料金:Adult/S$18、Child(7〜12歳)/S$9
1942年のシンガポールを舞台とした戦争ボードゲームが販売されていました。
英国マレー軍の司令官だったアーサー・パーシヴァル中将と日本軍の山下奉文中将が描かれています。
東側の広場の2箇所にあるゴシックゲート。ジェームズ・エドワード・フェーバー(James Edward Faber)という人物によって設計されたもので、セントーサ島の北側にある丘マウントフェーバーは彼の名前だそうです。
内側の広場は1822年から1865年までキリスト教徒の墓地だった場所。
時計の針を14世紀に戻します。かつてKingdom of Singapuraの王宮があった丘は周辺住民から「Bukit Larangan=英訳 The Forbidden Hill=禁断の丘」を意味しており、周辺住民が立ち入ることはありませんでした。
この話がとかく興味深いのは約400年の時を経てイギリス人が現れた1819年になっても、現地住民が「許可なしでは丘に登らない」と言っていたという点。
イギリス人が上陸するまでの約400年もの間「禁断の丘」でありつづけたということです。
Kingdom of Singapuraは1396年に禁断の丘(王宮)を放棄。
1402年に、マラッカ王国の初代スルタン パラメスワラがマラッカに王都を築くと同時に、シンガポールはその重要性を失っていきます。

マラッカ王国そのものも1511年にポルトガルに占領され、シンガポールはポルトガル軍に1613年に焼き払われて以来鬱蒼としたジャングルに戻り、歴史の表舞台から姿を消します。
イギリス人が上陸後に森を伐採した際、丘の上からレンガ造りの建物が多数発見されます。
写真は発掘されたRuins of Ancient Singapore(古代シンガポールの遺跡)。インドネシア語ではkeramatと呼ばれ、神聖な場所を意味するそう。多くの場合はお墓であります。
Kingdom of Singapuraの最後の王スリ・イスカンダール・シャー(Sri Iskandar Shah)のお墓ではないかと言われていますが確証までは得られていないようです。「Singapura=Lion City」の名付け親でもありKingdom of Singapuraを築いたパレンバンの王子サン・ニラ・ウタマ(Sang Nila Utama)も埋葬されたとの説もあるそう。

シンガポール伝説の謎は深まるばかりです。
かつてのシンガポール海峡に向かって設置されている9ポンド砲。
トーマス・ラッフルズが住んでいた住居Raffles House。
かつてはシンガポール海峡を見渡せる素晴らしい眺望がありましたが、現在はシンガポールの象徴である金融街のビル群が見えるのみ。
ラッフルズはサマセット公爵夫人に以下のような手紙をあてています。
「この景色よりも素晴らしく美しいものはありません。マレー王のお墓が近くにあり、もしこの場所で死ぬ運命ならベンクーレン(ラッフルズが以前赴任していたスマトラ島の地)で骨を埋めるよりもよいことでしょう」
ラッフルズハウスの前に立つフラッグスタッフ。
1825年に建てられた当時は木製で「船の到着を知らせる」重要な役目を担っていました。
日本の植民地下においては当初日本の国旗が掲げられいましたが、連合国の標的になり得るため解体してしまったそう。
終戦後再度イギリスの統治下に戻った際にスチール製のフラッグスタッフが建てられたものの壊れてしまい、現在は当初建てた木製のフラッグスタッフの形を再現したレプリカです。
ラッフルズの住居からはシンガポール議会(Parliament Of Singapore)とヴィクトリアシアター(Victoria Theatre & Victoria Concert Hall)、その先にマリーナベイサンズが見えました。
ラッフルズや古代マレーの王がこの景色を見たら腰を抜かすことでしょう。
フォートカニングパークの場所・行き方・アクセス
フォートカニングパークの最寄駅は地下鉄MRTシティホール駅(EW13、NS25)、クラーキー駅(NE5)、ブラスバサー駅(Bras Basah)。
ベンクーレン駅(DT21)からも徒歩圏内のため、シンガポールを網羅する地下鉄路線のいずれからもアクセス可能です。
周囲にはプラナカン博物館やシンガポール切手博物館があります。
おわりに
(The Battle Boxのツアーに参加しない場合)フォートカニングパークの所要時間は敷地内を一通り周るのには約2時間。
14世紀にシンガポールを統治していた王様やラッフルズが見おろした港の景色を想像しながら、散策してみてはいかがでしょうか。
