明治元年(1868年)、札幌の地に住まう和人は2家族、7人。
札幌の始まりの地となる、豊平橋に佇む志村鉄一と吉田茂八の碑を訪ねました。
明治元年(1868年)の札幌の地図
札幌市中央図書館(札幌市中央区南22条西13丁目1-1)に所蔵されている「明治元年札幌地圖」。
明治元年(1868年)といえば、日本史上最大の内戦と言われる戊辰戦争が始まる年。
まさしく列島全体が激動の嵐にもまれた時代です。
開拓使が置かれ「北海道」と改称される前、その頃の札幌。
和人の住宅は、豊平川の左岸と右岸に、それぞれ1軒。
志村鉄一と吉田茂八の2家族、計7人。
現在は人口200万人近い都市札幌も、わずか150年前に遡れば、志村鉄一と吉田茂八の家のみ。
2人の住宅があった場所は、豊平川に架かる豊平橋近くで、現在は道路の脇にひっそりと碑文が残されています。
札幌開祖 志村鐡一碑 Tetsuichi Shimura
豊平橋の右岸、プレミアホテル-TSUBAKI-札幌の西側の一角にあるのは志村鐡一碑。
札幌に和人として初めて居住したのは、信州の剣客である志村鐡一(Tetsuichi Shimura)でした。
石狩役所調役の荒井金助の命により、安政6年(1859年)には豊平川の渡守として右岸に永住。
左岸側の吉田茂八碑と照らし合わせれば、安政4年(1857年)には既にこの地に住んでいたと思われます。
札幌開祖 志村鐡一翁居住之地跡
志村鐡一碑から100メートル程川下へ進むと、「札幌開祖 志村鐡一翁居住之地跡」の木碑を見つけることができました。
札幌開祖 吉田茂八碑 Mohachi Yoshida
豊平橋の近く、左岸側の渡守を務めたのは、吉田茂八(Mohachi Yoshida)。
初夏には日差しを完全に覆い隠す藤棚があり、橋を渡る人の休憩スペースの前に、吉田茂八碑を見つけることができます。
碑文は真裏にあるものの、隣地は賃貸マンションのため、身体をのけぞらせなければ見ることは叶いません。
吉田茂八は北海道南部の松前の生まれの猟師。
安政4年(1857年)に命を受け、豊平川右岸に住む渡守 志村鐡一の「話し相手」として、左岸側の渡守の任に就きます。
「豪胆、狩猟を得意とした」とある通り、狩猟採集時代のようなサバイバル能力を持ち合わせていたのでしょう。
羆はもちろん、今は絶滅したエゾオオカミも周囲の森の中を自由に駆けていたかもしれません。
後年は創成川の南3条から南6条の掘削工事を行い「吉田堀」とも言われる。
フェアフィールドバイマリオット札幌から創成川公園の南端までの区間です。
豊平橋 Toyohirabashi Bridge
アイヌの人々が「サッ・ポロ・ペッ(乾いた・大きな・川)」と呼んでいた豊平川。
豊平川は、支笏湖の北西にある漁岳の西側斜面から、豊平峡ダム・定山渓を経て札幌市内を流れ、石狩川に合流して石狩湾に注ぎます。
上流にダムが整備されている現在、その流れは穏やかに見えます。
しかし、ダムや堤防が整備される前の豊平川は水量が多く、何度も洪水に見舞われました。
明治4年、豊平川に架かる初めての橋となる豊平橋が架けられました。
当初は木製橋で、完成から約2ヶ月弱にして洪水の憂き目に。
その後、再建と損壊を繰り返し、最も脚光を浴びたのは5代目のタイドアーチ型鉄橋。
タイドアーチ型鉄橋は、旭川の旭橋、釧路の幣舞橋とともに「北海道三大名橋」のひとつに数えられました。
現在の豊平橋は6代目。
北側(下流)を望む。
南側には、幌平橋のアーチ型展望台、恵庭岳が見えます。
札幌開祖の2人の石碑が並ぶ豊平橋は、月寒通(国道36号線)に架かります。
交通の要衝。
例えば、千歳、あるいは、旭川へ。
道外からの旅行者の方も、レンタカーで通り抜けするかもしれません。
豊平橋の西側へ進むと、札幌の中心部。
すすきのニッカ看板の前です。
おわりに、札幌開祖志村鐡一碑の背中越しに、札幌開祖吉田茂八碑を望む。